本文の「あとがき」でも書きました通り、ここで出てきた「盟神探湯」という儀式は、『古事記』(以下『記』)・『日本書紀』(以下『紀』)にその出典を持つ儀式です。
以下に、参考のために『記』『紀』での「盟神探湯」の実態について、原文および訳を挙げておきます。
《『古事記』の「盟神探湯」》(下巻・允恭天皇條)
[原文]
ここに天皇(すめらみこと)、天の下の氏氏名名の人等(ひとども)の氏姓(うじかばね)の過(あやま)てるを愁ひたまひて、味白檮(うまかし)の言八十禍津日の前(ことまがつひのさき)に、探湯瓮を据ゑて、天の下の八十友緒(やそとものを)の氏姓を定めたまひき。
[現代語訳]
そこで天皇(允恭天皇=いんぎょうてんのう)は、天下の諸氏諸職の人々の氏(家の名)や姓(家の階級)が自然に、または故意に乱れていることをお嘆きになり、味白檮の言八十禍津日の丘に探湯瓮を置き、盟神探湯をして天下の人々の氏姓をお定めになった。
《『日本書紀』の「盟神探湯」》(巻十三・允恭天皇四年九月條)
[原文]
四年の秋九月辛巳朔(かのとみのついたち)己丑(つちのとうしのひ)に、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、
「上古(いにしへ)治(くにをおさむること)人民(おほみたから)所を得て、姓名(かばねな)錯(たが)はず。今朕(われ)、踐祚(あまつひつぎしり)て、茲に(ここに)四年。上下相争ひて、百姓(おほみたから)安からず。或いは誤りて己が姓を失ふ。或いは故(ことたへ)に高き氏を認(と)む。其れ治むるに至らざることは、蓋し(けだし)是に由(よ)りてなり。朕、不賢(をさなし)と雖も(いへども)、豈(あに)其の錯(たが)へるを正さざらむや。群臣(まへつきみたち)、議(はか)り定めて奏(まう)せ」
群臣、皆言(まを)さく、
「陛下(きみ)失(あやまち)を挙げ枉(まがれる)を正して、氏姓を定めたまはば、臣等(やっこら)、冒死(かむがむつか)へまつらむ」
と奏すに、可(ゆる)されぬ。
戊申(つちのえさるのひ)に、詔して曰はく、
「群卿百寮(まへつきみたちつかさつかさ)及び諸の(もろもろ)国造(くにのみやつこ)等、皆各(おのおの)言さく、『或いは帝皇の裔(みこはな)、或いは異しくして天降れり』とまうす。然れども三才(みつのみち)顕はれ分れしより以来(このかた)、多(さは)に万歳(よろづとせ)を経ぬ。是を以って、一の氏蕃息(うまは)りて、更に万姓と為れり。其の実(まこと)を知り難し。故(かれ)、諸の氏姓の人等、沐浴斎戒(ゆかはあみものいみ)して、各盟神探湯をせよ。」
則ち(すなわち)味橿丘(うまかしのをか)の辞禍戸岬(ことのまがへのさき)に、探湯瓮を坐(す)ゑて、諸人(もろひと)を引きて赴(ゆ)かしめて曰く、
「実を得むものは則ち全からむ。偽らば必ず害(やぶ)れなむ。」とのたまふ。
[盟神探湯、此を区訶陀智(くかたち)と云ふ。或いは泥(うひぢ)を釜に納(い)れて煮沸(にわか)して、手を攘(かきはつ)りて湯の泥を探る。或いは斧を火の色に焼きて掌に置く。]
是に(ここに)、諸人、各木綿手繦(ゆふたすき)を著(し)て、釜に赴きて探湯(くかたち)す。則ち実を得る者は自ら(おのずから)に全く、実を得ざる者は皆傷(やぶ)れぬ。是を以て故らに詐(いつは)る者は、愕然(お)ぢて、予(あらかじ)め退きて進むこと無し。是より後、氏姓自づから定まりて、更に詐る人無し。
こんなところです。原文はそれぞれ『記』が岩波文庫『古事記』(倉野憲司校注)より、『紀』が岩波文庫『日本書紀』第二巻(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注)より取っています(読みやすくする関係上、改行を一部変更してあります)。なお、現代語訳は筆者が自分でつけたものですので、間違いがあるかも知れませんが悪しからずご了承下さい。
内容的には、第十九代の天皇である允恭天皇が、国民の間でいろいろと氏姓が故意に乱れているのを嘆いて、故意に乱した者を見つけるために盟神探湯をする、という記事です。『記』ではかなりさらりと流されてますが、『紀』ではかなりいろいろと、盟神探湯の方法についてまで書いてあり、イメージをふくらますのに役に立ちます。
ここでは盟神探湯はどちらかというと「嘘発見器」のような役割をしていますが、もともとが「誓約(うけい)」と呼ばれる正邪の判断のための儀式なので、本文のように罪のあるなしを如何するのに使っても問題はないでしょう。
なお、「誓約」については登場回数が余りに多いうえ(特に『紀』の神武東征の部分)、また例を挙げるのは蛇足なので割愛させて頂きます。
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